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| 青木勘二 明治8(1875)〜昭和45(1970)
上毛郡堀立村(豊前市大字堀立)に生まれた。父・源六信武、母・ツキの二男。家は代々小笠原藩士であった。 梶屋小学校、黒土小学校を卒業後は英語、数学、漢学など個人について学習した。 明治25年、八屋町大村尋常小学校教員雇教員を振り出しに、検定に合格し、29年に22歳で大村小学校校長事務兼掌として手腕を振るったが、31年築上郡長・高橋永種に見込まれて郡役所に登用され、明治45年に庶務課長に昇進、宇島港改修委員長を兼ねた。 大正6年(1917)大牟田町が市に昇格した時、県は青木を推薦し、同年7月、同市の第一課長に任命され縦横に才腕を振るった。居ること2年、三井鉱山鰍フ要請を受け、直方の本洞鉱業所を経て、同年中に田川鉱業所に移り、精励して9年に及んだ。 当時、黒土村は島田碩之助村長の後任が決まらぬまま7ヵ月を経たが、村会から再度要請の議決を受けて、彼は村長就任を決意した。月俸は102円から50円に減じた。 以後在任5期、村治の進展と村風の振興に精進した。 高橋庄蔵の遺志を継ぎ、矢方池の増築、才尾池、池尾池の改修などを着々と完成し、農業基盤の充実を図った。 村政に尽くすこと18年、ある日、村の石清水八幡宮の神木が風もないのに突然倒れたのに感じて「我がこと終われり」と職を辞したという(昭和20年9月3日辞任)。 氏は若年から公共心が厚く、教育、福祉、災害救助の各方面で私財を寄附することがしばしばであった。晩年には、昭和の国難に当たって国民と日本の山河が共に滅亡を免れたのはひとえに「万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス」(終戦の詔勅の一部)る陛下の御聖断によると深く感銘し、東奔西走した。 黒土文化協会(氏が会長)を通じて「為万世開太平」の壮大な碑を同村高田の地に建てた。碑は昭和36年4月28日除幕され、安岡正篤の題字と撰文が刻まれてる。 |