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| 清原正彦 明治10(1877)〜昭和16(1941)
清原家は代々四郎丸(豊前市大字四郎丸)の甫起山・大冨神社の社家である。当社は明治6年に郷社に、同16年に県社に昇格し、昭和36年7月、別表神社に加えわれた。この宮に伝わる豊前感応楽や神幸祭は昔から近郷に名高く、他にも多くの貴重な文化財を保存している。 正彦は父・司、母・能登の長男として生まれた。14歳で父を、また17歳で母を失い、その後は祖母・久枝の養育を受けた。 大村、開蒙、八屋の各小学校を経て、明治26年久路土高等小学校を終え、福岡市の国学者・杉田敏足について4年間皇典学を修めた。 27年神官試験に合格、30年4月県社大冨神社の社司(宮司)に任命された。 31年1月以降、山田、八屋、千束、横武、宇島、三毛門、角田、西角田の各町村に及ぶ郷社、村社、無格社など60余社の社司、社掌に任命された。 明治40年郡(旧)内諸社の合祀整理のため、郡長を補佐してこれに当たり上の60余社のうち47社の合祀を決めた。 大冨神社の維持経営の苦心は一通りではなく、山田、八屋、千束(一部)、横武(一部)の四カ町村の氏子の融和統合にも心を砕いた。当社の基本金づくりには宮司自らの棒給の一部を割いて10年積み立て、これを基にして昭和9年には相当の基金と若干の田畑、山林などの財産を加えた。 神域の整備に努め、神殿の屋根の檜皮葺き替え(明治31年) 、神幸祭御旅所敷地の新設(同33年) 、神輿3基新調(昭和4年)などの事業を行った。 明治39年7月30歳の時に推されて郡社職会長となり、昭和9年まで29ヵ年重任した。その間、県豊前神職会長(26ヵ年) 県神職会築上郡(旧)支会長(3期) 県神職会理事(6ヵ年)などを兼務した。 昭和10年、奏任官待遇を受けた。 宮司は人となり、篤実公正で永年、小作調停委員、婦人会、男女青年団などの顧問を努め、郡教育会から社会教育功労者として表彰された。昭和48年第33回の斎忌に当たり氏子と関係有志は胸像を境内に献納し、遺徳をたたえた。帰幽の日付をもって従六位に昇叙された。 |